こじらせ女子のつまらない出来事

長めの文章が好きな方へ

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結局、他人が怖いから、何も言い返せないのかもしれない

最近また、とみに引きこもりがちになっていて、仕事に行っているけれど、極力ひとと接する機会を減らし、まっすぐ帰宅しては一人で過ごしている。

人と会う機会が多いと一人になりたくなり、しばらくするとなんだか忘れて、刺激が欲しくなる。やっぱり波があって、繰り返しみたいだ。

 

 

他人の接することによって受けるストレスについてこのところ考えていて、愚痴が多い人が嫌だ、と書いたけれど、相手そのものに嫌気が差しているというよりは、不快なことを言われたり、されたりしても、何も出来ないでいること、それこそがストレスなのかもしれないな、と思うようになった。

ネガティブな話をずっと聞かされるとか、いじりとか、笑いのネタという名のもとに、体型や過去の行動などについて話題に出されるとか、もっと過去にさかのぼれば、「タヒね!」などの暴言であったり、人格攻撃めいたハラスメントであったり、されたくないことは色々あるのだけど、そういうことをされると、私は大抵何も出来ない。

固まったり、表情を強張らせたりしてしまうだけだ。それどころか、「失礼な発言」という範疇におさまるようなことだと「え~そんな~」などと容認する発言をしてしまったりするときもある。

悲しいとか、失礼だとか、嫌だとか、困るとか、面と向かってちゃんと言えた試しがあっただろうか。子どもの頃には泣き喚くこともできた。でも、大人になってから一度もできていない気がする。

 

いつも、我慢して我慢して我慢して我慢して、笑っているフリをしてあいまいにやり過ごして、そのうち耐え切れなくなって、断絶したり縁を切ったり、一方的に疎遠にしてしまう。

今日ははっきり言おう、と何度となく思うのだけど、悪気のない相手を酷く傷つけてしまうかも、とか、逆上して怒鳴られたり手を上げられたりするのではないかとか、そんなことがいつも頭をよぎって、できない。

だから私は、みんなが上がっている舞台に片足だけ乗せて、でももう片足はいつでもカーテンの陰に隠しておく。いつでも逃げられるように。幕が引けたら、すぐに。

 

私は自分のことを、色々なことを笑って許せる、和やかに場を納められる人間だと思っていたけれど、それは美しく、都合よく捉えすぎていたのかもしれない。迎合的で、無責任な話だ。

私はいつも良いように扱われて、殴られて傷つき続けている。被害者のような気持になることすらある。いつだってただ、やり過ごしてきた。

傷つける側が悪いに決まっている、と世の中では言うけれど、対等な人間のような顔をしながら、同じ姿勢でぶつかれない人間は悪くないだろうか。自分は弱い、という立場に立つのは卑怯ではなくて?

弱いというのは自分で自分を守れないということで、しかもそれは、立ち上がる勇気がない臆病者だということだ。こんなんじゃいけない。こんな風にはなりたくなかった。ただ、やり過ごして被害者面をしている人間になんて。

 

結局、心の中にある「怖さ」を克服する勇気を持たなくてはいけないということなんだろう。10代の頃に持っていた、自意識過剰さとか、世間への漠然とした恐怖感はずいぶん克服されたきたと感じている。

自己肯定感の問題がよく聞かれるように、自分自身は劣った存在あり社会に受け入れられないであろうから、当時それで世間が怖かったのだと思う。今は、存在自体への否定ではなくて、自分の在り方、つまりは他者やコミュニケーションへのスタンスの問題であるはずだ。

利用しようとしてきたり、嫌なことをしてくる相手の一助になってしまっているのは紛れもなく私自身であって、また、そういった相手の可否はともかく、不愉快な行動をとる相手(=ストレスをかけてくる相手)が人生から永遠に消え去ることも恐らくないのだ。

これは、きっと、ちゃんと外に出て、立ち上がり続けなくてはいけないというお話なんだと思う。どんなことにもぶつかっていく必要があるんじゃなくて、姿勢の問題として。何も出来ずに身を硬くして、やり過ごそうとするからストレスに押しつぶされそうになるのかもしれない。

みなさんはどうですか。自分なりの方法で、自分を守れていますか?

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