こじらせ女子のつまらない出来事

長めの文章が好きな方へ

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生きているのが辛いなら

こちらの記事を受けて、自殺という選択肢はアリか、ナシか。

死は解放である、と思っていた時期がありました。

いまでもそうかもしれません。
積極的に死にたいといまは思っていないだけで全部終わりにできる、楽になれる、とは思ってしまいます。
昔より楽な気持ちで生きてはいるけれど、問題は山積みで、楽しいこともたくさんあるけれど、積極的に希望だけ溢れているわけではありません。
生きている以上、自分を愉しませなければと思い、楽しいことを探して気ままに生きているのが今の私です。

過去は(要は実家にいたときですが)死にたくてたまりませんでした。
心や体に傷を負うことばかりの生活に、心底絶望していたからです。
でも死ねなかった。親より長く生きることが義務だと思っていたからです。
叔母が早くに亡くなった後の祖母の嘆きを間近でみていて、幸せな生涯が暗転したと思った時から、何があっても生きていなければならないと思っていました。
実家から逃げ出した後も、楽にはなりませんでした。
もう誰の役にも立てない。人とのつながりもなく、何の意味もない。人生に失敗した。そんなことばかり思い、逃げ出したい気持ちもでいっぱいでした(でもできませんでした。エネルギーがつきていたし、どこへいっても自分からは逃れられないとの気持ちもが強かったからです)。

何かのために生きる人生は虚しい。
健全な気持ちで、家族や子供のために、と思うのは良いのです。
でも人によっては、日々は地獄のようなのに、生きる義務だけある、そんな人生になっているかもしれません。
そんな人に、家族や他人の気持ちを考えろ、死んではいけない、と言えるでしょうか。
生きたくても生きられない人もいるのに、死ぬなんて許されないと、よく人は言います。

他人の気持ちや、迷惑のために、苦しさを堪えろと強要されるのは堪らない。
辛い、頑張る、辛い、でも頑張る、そして決壊するかもしれない。

私は死は賛美しませんし、死を理想や主義のためな手段とすることは心底愚かであると思います。
でも、あまりの辛さに、そんな気持ちで死を選んだ人がいたとしたら、責めたりはできないと思う。
酷いかもしれないけど、楽になれて良かったね、と思ってしまうかもしれません。

誰かのかけがえのない存在なのだから、死ぬなんてナシ、と残った人は思うかもしれないけれど、
それならば、生きている時に救ってあげなかったあなたに責任はないの?
と、言ってしまうかもしれません。
(注 大人に限ります。どんなときでも子供には絶対に責任はありません)

酷いでしょうか。
でも、生きている間、たぶんずっと戦ってたんです。必死で全力で。
人はたぶん、現実的な何かのせいではなく、絶望しきった、希望の潰えた心のせいで死ぬのではないでしょうか。

だから、もし、私が身近な、心底大切に思っている人が死を選ぼうとしていたとしたら。
私は責めないし、もうそれしか手段がないよ、と、思うのなら、止められないかもしれません。

でも。
生きている限り、絶望ばかりの生活から抜け出せることも知っています。
生きたかったわけではなかったけれど、差し伸べてもらった手もありました。でもなにより、死ぬことができずにもがいていたら、結果的に浮かび上がってきたような感じです。
心も気持ちも、少しだけど前向きになりました。楽しくてたまらないとは言えないけど、崖の淵に辛うじて立っているような気持ちはもうありません。

※詳しい話は過去記事をご覧いただけたら幸いです


だから私は、そんな人がもしいたら、そして私の大切な人なのだとしたら、何としてでも助けたいと思う。
現実的な困難や、状況を変える、改善する、という意味で助けようと思う。
本人にはもうそんな気力はないだろうからです。
できないと思われるかもしれないし、逃げたりできないと思うかもしれないけど、なんでもいいよ、私が許容するよ、楽になるならなにしてもいいよ、ってきっと言います。
改善する余地がないことかもしれません。何もできることはないかもしれない。
あなたが好きだよ、生きていて、一緒にいてくれたら、私は嬉しくて、幸せだよ、っていっぱい伝えます。
そんなことはもうどうでもいいのだ、辛くて仕方がないから、生きて行くのが辛いのよ、と言われたとしても。
これから幸せになって欲しい、幸せになるための手助けをするよ、と。
できたらそれを試してから、それでも絶望がやまないと、無理なのだと分かってから死を選んで欲しい。

やれることをやり尽くして、真剣に生きた結果として、それでももはや死にしか希望が見出せないのなら、私は自殺はアリだと思う。

たとえば名前を変えて、誰も知らない遠くに行って、今の人生に生きる自分を殺すという形で社会から死んで、生まれ直して。
それでも自らであることが無理なのだとしたら。

でもきっと、そんなことはないと私は思いたいけど、でも。
とても勝手な意見だけれども、誰かのためではなく、自分のためになら、選択肢の一つとして死はアリ、かもしれないと私は思います。
他人の気持ちではなく、自分のために。

まずは真剣に生きていかないと、何も選ぶ資格はないはず。

読んでいただいてありがとうございました。