こじらせ女子のつまらない出来事

長めの文章が好きな方へ

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はてな題詠「短歌の目」 2月のお題に参加します

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卯野抹茶さん (id:macchauno)の投稿短歌企画に参加します!


今月のお題 - はてな題詠「短歌の目」

 

皆様の投稿作品を拝見して、リズムも言葉の選び方もとても個性的で、短歌って面白いんだなーと楽しく読ませていただきました。

短い言葉の中に、情景が溢れ出てくるんですね。日本語って素敵ですね。

短歌は高校生の時以来なのかな?ほぼ12年ぶりです。

ではではスタート!

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年齢を感じる瞬間は?

朝の情報番組(ZIP!)を見ていたら、街頭インタビューで北野きいちゃんが「年齢を感じる瞬間は?」と尋ねる企画をやっていた。

二十歳ぐらいの女の子が、

「女子高生の間で流行っている最新の若者言葉が分からない」

 ※分からないと言っていたのは、「LJK=高校3年生の女子」。はやっていたことすら知らないよ…笑

と答えていて、それに対し北野きいちゃんが、

「大丈夫!あと数年したら分かろうとも思わなくなるから!」

とか答えていて、なんかシュールで面白かったwww。

あまり見ない番組なんですけど、北野きいちゃんってけっこう面白い子なのかな?けっこうツッコミがシビアで楽しかった…。

 

さて、昨年無事に30歳を迎えた私が、年齢を感じる瞬間はなにかなぁと考えていたんですが、一番は、「髪質の変化」だと思う。

 

ティーンエイジャーだったことろの私は、とにかく髪の量が多く、硬く、毛が太いというかなりの剛毛で、毎朝のセットが悩みのタネだったのに、いつのまにか見る影もなくなり、気質も柔らかで細く、猫っ毛に変化してしまった。

しかも根元がうねりやすいし、クセが強くなっていて、特定の箇所の毛がうねうねとウェーブしている!

し、か、も、どうも油っぽくなりやすくなった気すらします。夜、早めの時間にお風呂を済ませてしまうと、翌日の午後からもちょっとしっとりしてるような、、、今、冬ですよね?大丈夫?っていう…。

これは使っているシャンプーのランクを下げたせいかもしれないけど、、、というか、そのせいだと思いたいんですが、どうなんでしょ。

 

特に昔から生活習慣やケアの仕方を変えていないのに、変化してきている箇所には年齢を感じざるを得ないのかな…。

肌も、ファンデなしでも大丈夫かな?というレベルを保っていはいるけど、やはり乾燥しやすくなっている感は否めません。では、お値段がより高く、高機能な化粧水か美容液を買えばいいのか?とも思うけど、それはそれで正解なのか?かえって肌を痛めつけたりしないのか?と、どうにも悩ましい。

 

もっとずっと若かった頃は、年を取るのが怖くて仕方がなかった。

自分の中から何かが損なわれてしまうような、色々なものが差し迫ってくる感じがして、時間がない感じが常にしていたからかもしれない(何をする時間がないのか?と考えればよかったのかもしれないけど、当時はむやみやたらと思っていたような…)。

 

実際に30代になってみると、年齢を重ねるのはやむを得ないことで、変わっていく部分は当然あるのだし、そこまで拒否感なく受け入れられている。。

体力や見た目の変化はまだそこまで感じないので、年齢による変化を実感する機会がまだ少ないのかもしれないけど、加齢によって自分が衰えた、という風に捉えないようにしたいな、とは思う。

美容や健康の面で、今までのやり方が通用しなくなっていく部分がある、というのは一つの事実で、そこに戸惑いを覚えるところがないわけではないけれど、20代の頃の自分を保つことが最適な訳ではない。

 

さらに、おそらくだが、気力や精神力の変化に加齢はあまり関係がない気がする。「もうトシだから」「もう30だから」と、色々なことへの言い訳に利用できるだけだろうな、と思う。

 

 

お久しぶりです。お元気ですか?

明けましておめでとうございます。

 

ずいぶんとご無沙汰してしまいました。

あれから色々ありまして、、と書きたいところですが、特筆すべきことはあまりないような…(笑)

 

変わったことと言えば、久々に長めの海外旅行をしたり、お見合いはしたけど縁がなかったり、ある大きなお買い物をする決意をしたり、長いお付き合いだった人に別れを告げてみたり、リアル知人には内緒でやっていたこのブログが、20年来の親友に発掘されてしまったくらいでしょうか。
(しかも、たくさんアクセスしていただいたブクマ関連の記事ではなくて、どうってことない圧力鍋の記事から…)

 

元気か?と言われると、秋ごろからひどい偏頭痛の発作に悩まされていて、あまり元気ではないんですけど、素敵な出会い(このブログを通じても!)も多々あって、けっこう楽しく、適度に刺激的に過ごしていたような気がします。肩の荷が下りたようなことも、悲しいこともありました。

10年前なら大事件!と大騒ぎしているようなこともあったと思うんですけど、なんだかもう、それも日々の流れの中での出来事で、淡々と過ぎて言っているような、そんな感じがします。

 

去年は、思いがけなく沢山のアクセスをいただいた記事があって、あまりの反響の大きさに喜びつつも、身構えすぎて畏まっているうちに、ずいぶんと時間が空いてしまいました(笑)

いろいろと思ったり、考えたことはたくさんあったんですけど、すっかりブログを書く習慣が途絶えてしまって。。。

その間もけっこうアクセスをいただいていて、とてもありがたい気持ちです。2015年は気持ちも新たに、書いていこうと思います。

 

今年もどうぞよろしくお願いします。

自己肯定感のその先に

実は近々お見合いのようなことをすることになって、先方はお父上が同席されるということで、うちの母はついに私の出番か!と張り切っていたようだったけれど、もちろんお断りした。そもそも、数年間会っていないのだし。

父はいない(離別)からもちろん呼べないし、間に入ってくださっている方にお願いしてみようかとも思ったけれど、やはり釣り合いがとれないだろうし、少し悩んだけれど、もう1人で行くことにした。

どうして私が1人出来たのかきっと聞かれるだろうし、お見合いならば家庭環境の話題も必ず出るはず。別に恥ずかしいことはしていないのだから、堂々と行けばいい。

そう思ったけれど、かなり心がしぼんだし、今回もきっと無理だろうな、と思ってしまった。なんだろう、この感覚は、と思い返してみると、いつも出会いの場に行くと多かれ少なかれ同じような怖さを覚えている気がする。

過去の記事で、自己肯定感の根っこのようなものは芽生えましたよ、というお話しはしたけれど、じゃあ自信満々、いつも堂々と生きております、なにも怖くないの、という訳ではもちろんなくて、その気持ちは異性関係だとかなり強くなる気がする。

そう悪くはないし、恥ずかしいことはしていない、と思いつつも、こんな自分を受け入れてくれる男性がいるのだろうか、と思うと、私はやっぱり自信がない。怖くなってしまう。

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「主語=自分」の会話が苦手な件について

生き方とか人生とか、なんだか難しい話題ばかり書いていたものだから、すっかり頭が小難しくなってしまった。

ふだんじっくり考えないような、目が向かないようなことを考えてみるきっかけが得られるので、ブログやツイッターは面白いな、と思うのだけど、堂々と自分の意見をブログに書いているわけではなくて、なんか違うかも?変かも?誰も聞いてないのにバカみたいかも?と、なんか落ち着かない気持ちも強い。

ホント恐る恐る、キョドりながら、でも書きたいなぁという欲求があるから書いちゃう、ってかんじ。

別に、誰にどう思われたって大した問題ではないし、真剣に悩みこむわけではないんだけども。でもなんか、私なにをこんなに主張しちゃってるのかしら?とちょっと複雑な気分になったりして。

 

ここしばらく、偶然だけれども人と会う約束が多く、わたしにしては珍しく色々な方とお話しさせてもらった(普段は、決まった友人とばかりやりとりをしていることが多いのである)。

とあるはてなブロガーさんとも、うまく予定があってお食事をさせていただく機会をいただけた。許可をいただいていないので詳細は書かないけれども、ブログ開設当初から見ていただいた方で、私もずっと読んでいた方。

ブログのエントリについてより詳しく聞かせていただけたのもとても良かったけれども、ブログやツイッターを通じて、ぼんやりこんな方なのかなぁと想像していた方と実際お会いできて、現実的な画を結んでいくというのはすごく新鮮な経験だった。

現実の私は、あまり物事を知っているわけでもなければ、考えも浅くて話すのも苦手で、有意義に思ってもらえる人間かどうかは甚だ疑問なのだけれども、とにかく私はとても楽しくて、ステキな経験でした。*1

この場を借りてさらに御礼申し上げます。ありがとうございました。

 

うまく話せなかったな、と言い訳をしたいわけではないのだけれども、私は昔からとてもコミュ障で、人見知りだなぁと思っていた。このことを言うと、そんな風には見えない、と言われることが多くて、違うのかな?でもなんか自分は難しいんだけどな、と思っていたのだけど、最近やっと、自分のコミュニケーションの何がよくないのか分かってきた気がする。

コミュニケーションスキルが低い(=会話ができない)と言うよりは、主語=自分の話題がとても苦手なのである。新しい方と出会うと、「私自身」についてお話をする機会がどうしても多くなり、そこに戸惑ってしまう自分がいるのだ。

私はこんな人、私はこう思う、私はこうしたい、この話をするのがとても苦手だ。逆に、事実や現象について説明したりする(例えば、こんなことがあった、と報告する)ことは比較的苦にならないので、なるべく「Iam」の会話を避ける方向で昔からコミュニケーションをとってきたのだった。

そういえば、弟(婚約破棄騒ぎでハートブレイカーの例の弟である)にも、「姉ちゃんはメールはいいこと言ってくれてるな、って感動したりするのに、電話だとホントだめ」なんて言われちゃったりするのである(まったく失礼な話!)。

でもたしかに、話していてうまく話せないなぁという感覚に陥ることは多くて、その理由を考えてみると、自分が話を聞くほうではなく、話す側になったときに、語るべき内容がよくわからない(=用意できていない)ような感じがするからではないかと思う。

文章だと、ゆっくり考え時間があるし、書きながらぐんぐん思考が深く言語化されていく感覚があるのだけれど、会話だと難しい。

よく、自分を理解していないと婚活ではうまくいかない(好みのタイプやら、自分の希望すら自認できていないため、アピールができない)、という意見を眼にするけれども、確かにそのとおりで、婚活でなくても志向がはっきりしない人間はつまらない。

合コンだと、好きなタイプ、趣味、職業*2の3つは鉄板の質問であるけれども、そのどれについても最初はうまく答えられなかった。今では、だいぶ場慣れしてきたので、ちょっと変わったと思うけど。

なんでもハッキリしすぎている人は私はニガテだけれど、いつも曖昧で顔色をうかがってくるような人よりは、ずっと良いと思うし、何より私に関心を持ってくれて、知りたいというボールを投げてくれる方に、明確な返しができないというのはとても失礼で、申し訳ないような感じがする。

以前のように、自分はこういう風に見られたい、とか変に思われたくない、という気持ちがあまりなくなってきたから、自分への理解が深まれば、だいぶ変わるかしら、と思うこのごろ。

「Iam …」の話ができるようになれば、もっと人生楽しくなるかもしれないし。

なので、これからは(自分比で)比較的ラクな『文章を書く』作業を通じて、もっとたくさん考えてみる所存である。くだらないブログももっといっぱい書いてみようと思う。

自分語りは恥ずかしいな…、と昔から思っていたけれども、読んでいただける方には、生暖かくお付き合いいただければ幸いです。

ツッコミ、質問、大歓迎ですので、どうぞ宜しく。

 

 ※数ヶ月かけて↓の本やってるんですが、なかなか進められてません…

My Life?書き込み式・自己カウンセリングBOOK (祥伝社黄金文庫)

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*1:なお、実は、もし機会があるならお話ししてみたいなぁという方が他にも何人かいらっしゃいます。個人のお考えもあると思うので、まだアプローチするかは決めかねていますが…。逆にブログやツイッター等で絡みがある方で私に興味を持ってくださってる方、いらっしゃるでしょうか…。

*2:職業は理解していないのではなくて、類似の仕事が少なくて説明がむずかしいというだけ

生きているのが辛いなら

こちらの記事を受けて、自殺という選択肢はアリか、ナシか。

死は解放である、と思っていた時期がありました。

いまでもそうかもしれません。
積極的に死にたいといまは思っていないだけで全部終わりにできる、楽になれる、とは思ってしまいます。
昔より楽な気持ちで生きてはいるけれど、問題は山積みで、楽しいこともたくさんあるけれど、積極的に希望だけ溢れているわけではありません。
生きている以上、自分を愉しませなければと思い、楽しいことを探して気ままに生きているのが今の私です。

過去は(要は実家にいたときですが)死にたくてたまりませんでした。
心や体に傷を負うことばかりの生活に、心底絶望していたからです。
でも死ねなかった。親より長く生きることが義務だと思っていたからです。
叔母が早くに亡くなった後の祖母の嘆きを間近でみていて、幸せな生涯が暗転したと思った時から、何があっても生きていなければならないと思っていました。
実家から逃げ出した後も、楽にはなりませんでした。
もう誰の役にも立てない。人とのつながりもなく、何の意味もない。人生に失敗した。そんなことばかり思い、逃げ出したい気持ちもでいっぱいでした(でもできませんでした。エネルギーがつきていたし、どこへいっても自分からは逃れられないとの気持ちもが強かったからです)。

何かのために生きる人生は虚しい。
健全な気持ちで、家族や子供のために、と思うのは良いのです。
でも人によっては、日々は地獄のようなのに、生きる義務だけある、そんな人生になっているかもしれません。
そんな人に、家族や他人の気持ちを考えろ、死んではいけない、と言えるでしょうか。
生きたくても生きられない人もいるのに、死ぬなんて許されないと、よく人は言います。

他人の気持ちや、迷惑のために、苦しさを堪えろと強要されるのは堪らない。
辛い、頑張る、辛い、でも頑張る、そして決壊するかもしれない。

私は死は賛美しませんし、死を理想や主義のためな手段とすることは心底愚かであると思います。
でも、あまりの辛さに、そんな気持ちで死を選んだ人がいたとしたら、責めたりはできないと思う。
酷いかもしれないけど、楽になれて良かったね、と思ってしまうかもしれません。

誰かのかけがえのない存在なのだから、死ぬなんてナシ、と残った人は思うかもしれないけれど、
それならば、生きている時に救ってあげなかったあなたに責任はないの?
と、言ってしまうかもしれません。
(注 大人に限ります。どんなときでも子供には絶対に責任はありません)

酷いでしょうか。
でも、生きている間、たぶんずっと戦ってたんです。必死で全力で。
人はたぶん、現実的な何かのせいではなく、絶望しきった、希望の潰えた心のせいで死ぬのではないでしょうか。

だから、もし、私が身近な、心底大切に思っている人が死を選ぼうとしていたとしたら。
私は責めないし、もうそれしか手段がないよ、と、思うのなら、止められないかもしれません。

でも。
生きている限り、絶望ばかりの生活から抜け出せることも知っています。
生きたかったわけではなかったけれど、差し伸べてもらった手もありました。でもなにより、死ぬことができずにもがいていたら、結果的に浮かび上がってきたような感じです。
心も気持ちも、少しだけど前向きになりました。楽しくてたまらないとは言えないけど、崖の淵に辛うじて立っているような気持ちはもうありません。

※詳しい話は過去記事をご覧いただけたら幸いです


だから私は、そんな人がもしいたら、そして私の大切な人なのだとしたら、何としてでも助けたいと思う。
現実的な困難や、状況を変える、改善する、という意味で助けようと思う。
本人にはもうそんな気力はないだろうからです。
できないと思われるかもしれないし、逃げたりできないと思うかもしれないけど、なんでもいいよ、私が許容するよ、楽になるならなにしてもいいよ、ってきっと言います。
改善する余地がないことかもしれません。何もできることはないかもしれない。
あなたが好きだよ、生きていて、一緒にいてくれたら、私は嬉しくて、幸せだよ、っていっぱい伝えます。
そんなことはもうどうでもいいのだ、辛くて仕方がないから、生きて行くのが辛いのよ、と言われたとしても。
これから幸せになって欲しい、幸せになるための手助けをするよ、と。
できたらそれを試してから、それでも絶望がやまないと、無理なのだと分かってから死を選んで欲しい。

やれることをやり尽くして、真剣に生きた結果として、それでももはや死にしか希望が見出せないのなら、私は自殺はアリだと思う。

たとえば名前を変えて、誰も知らない遠くに行って、今の人生に生きる自分を殺すという形で社会から死んで、生まれ直して。
それでも自らであることが無理なのだとしたら。

でもきっと、そんなことはないと私は思いたいけど、でも。
とても勝手な意見だけれども、誰かのためではなく、自分のためになら、選択肢の一つとして死はアリ、かもしれないと私は思います。
他人の気持ちではなく、自分のために。

まずは真剣に生きていかないと、何も選ぶ資格はないはず。

読んでいただいてありがとうございました。