こじらせ女子のつまらない出来事

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自己肯定から自己受容へ ~もっとずっと若かった頃、色々なものが怖かった~

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いまもまだ、若いと言える年齢だとは思うけれど、もっとずっと若かった頃、わたしは色々なものが怖かった。

 

一人でいるのが怖くて、人と話すのが怖くて、自分がつまらない人間だと見破られるのが怖かった。

不安定な心と醜い容姿が嫌で、周囲にどう評価されているのか知るのが恐ろしくて仕方がなかった。他人が持っているものを自分が何も持っていないように思えた。

自分にはなにか特別な才能や魅力があると信じたくて、そうである証拠を必死で探しながら、すがるような気持ちでいることを知られるのが恥ずかしくてたまらなかった。

何かの結果が出て、自分が何者でもない、ちっぽけな人間であることを突きつけられたくなかった。

限界まで頑張って、結局なんてことなかったらいったいどうしたらいいのだろう?

そんな気持ちからいつも私は逃げていた。どこかで手を抜く癖もあったし、そうしていればまだ夢を見ていられると半ば自覚していたし、そうでいながら山月記を読んで共感を覚えたり、切なさを覚えたりするような愚かなところもあった。

努力するのも才能が必要で、その才能が欠けているんだわ、などと皮相的な屁理屈を捏ねて、斜に構えたふりをしてみせたりしていた。

そして、そんな風になってしまった理由を家庭に求めては、感傷に浸っていた。

 

30歳になったとき、私はそんなことを思い出した。

どうして、若かったあの頃はあんなに自意識過剰だったのか、どうしてあんなに他人の評価や顔色が気になっていたのかしら、と思った。

人の輪から外れるのが怖くて、そうかと思えば埋没した平凡な人間だと思われたくなくて、いつでもここではない何処かへ、自分自身ではない何かを夢見ていた。

なのに三十路を越えた今、そんなことはすっかり忘れてしまっていて、少し前にも同じような気持ちでいた気がするのに、その頃の自分からはもう切り離されてしまったような、まるで断絶してしまったような気持ちだったからだ。

 

自己肯定感についての記事(大人になってから自己肯定感を高めるには - こじらせ女子のつまらない出来事)を書いた時に、たくさんの反響をいただいて、その中にいくつか、とても気になるコメントがあった。

 

頑張り屋で真面目な人が自己否定していたお話。自分のように心底怠け者の自己否定には恐らく当てはまらない。 
会社の人から認められる、てすごいな。看過してきたのに会社で打撃くらって社外の友達も信じれなくなることのが多いんじゃないか…なんかいいエントリなのに比べてクサってしまい自己嫌悪 

 

ブコメだけでなく、ツイッターやブログ上で書いていただいたものも含め、言及していただいたものにはほぼ全て目を通したつもりです。ありがとうございました

 

ちらほらと、「自分には肯定できるようなところなんて存在しない」、「がんばりが足りない」という趣旨のコメントを目にして、それがずっと心に引っかかっていた。

私の今の生活が、割と恵まれている環境にいると思っていることは否定しないけれども、だからといって、頑張ってきた私エライ!バンザイ!!いい生活できてるからOK!という気持ちから、自己肯定感を得られたよ、という訳ではなかったからだ。

何かうまく伝えられていないことがある、でも、自分の中に伝えられる言葉がない…モヤモヤする…。

そう思いながら半年ほど経って、分かった気がしたのだ。

自分を良いものだと肯定しているのではなく、だめな部分も出来ないことも含めて、受け入れる(自己受容)できるようになったから、楽になったんじゃないかしら、と。

 

私はもう、自分の恥ずかしいところとか、カッコ悪いところがあるのがそんなに嫌じゃないし、失敗するのもそんなに怖くない。

嘘もつくし、適当なことを言ったりまあいいやーと誤魔化したりする。あまり人に言えないようなことをしてしまうこともある。

昔はそんな自分がずるく思えて恥ずかしかったし、なんとかバレないようにしなきゃ、とか、もっと頑張って立派な人間にならなければ、などと思っていた。

もちろん、恥ずかしい思いをしたりするのはイヤだし、避けたいけれど、まあそんなもんだしなー、と今は思っている。

その結果、嫌われたり笑われたりしても、別にいいし(もちろんイヤだけど)、それならそれで、そういう人からは距離を取ればいいだけなんだなぁ、と。

 

もちろん、能力であったり、外見的な問題であったり、コミュニケーションでも何においても自分に足りないものや、出来ていないことも沢山ある。
でも、だからと言って自分がダメだったり、最低だったり、恥ずかしくてたまらなくなったりはしなくなった。

かつての私だったら、厚顔無恥だと情けなくなりそうな話しだけれど、外からの目のために行動するよりも、自分が楽しかったり心地よいと思えることをしたいと思う。

ダメなところや足りないと思うところは伸ばしたり、改善する努力をすればいいし、しなくても死にはしない。

やりたくないことは別にしなくてもいい*1

家事や美容、勉強だって、あくまでも自分が快適に過ごすためのもので、できなくてもダメ人間ではない、と私は思う。


しなきゃいけないこともないし、なるべき姿もなにもない。ただ、自分が心地よくいられる行動をして、辛いものや理不尽なもの、苦しいものからは距離を取る。

思っていたよりも、生きていくことってシンプルなことだったんだな、と今は思う。

 

私なりの解釈だけど、こうあるべき、とかこうなりたいという理想像への執着心が薄れて、いまの自分を否定せず、受け入れられている、それが自己受容ではないかと思う。たぶん、いつの間にか、しがみついていた何かへの執着心が薄れていて、生きていくことが楽になったのだと思う。

 

自己肯定に比べ、自己受容という言葉はあまり知られていないけれど、この半年で読んだ本の中には数冊記載があって、私なりにとても納得がいく言葉だったので、最後に紹介しておきます。

女性向け、恋愛に主題が置かれているけれど、自分への捉え方を考える上でもとても興味深い考察が書かれているので、恋愛に興味がない方でも、男性でも、ぜひ読んでみて欲しい。オススメします。恋愛本としてどんなお話が展開されているか気になる方は、著者インタビューをどうぞ。

 

この本については、また別エントリで触れるとして、上記の本の下敷きになっているのがアドラー哲学で、とても読みやすいのは以下の本です。

※昨年大ヒットした本ですね! 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

マンガでやさしくわかるアドラー心理学

マンガでやさしくわかるアドラー心理学

 

 

ちょっと違う観点でモノが見られるようになるかもしれません。

 

周囲を見渡していても、この人は自分自身も、周囲の環境も素直に受け入れられてるんだなぁって人は、生きていて楽しそうに見える。

そして、そうでない人は苦しそうに見える。

なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか (文庫ぎんが堂) にも記載があったけれど、女性の場合、子育てを必死でしていて、死に物狂いになっているうちに、いつの間にか自己受容できるようになっている例があるらしく、確かに、三十路を経て様々な環境におかれている友人達をみていると、それは一理あると思う。

よく聞く毒母のように、まったく受容できない人ももちろんいる。

思いも寄らない環境に飛び込み、死に物狂いになっているうちに、かつての自分の執着心や心残りがどうでもよくなっている、そういうことなのだと思う。

 

この先の人生は、自分に誠実に生きていきたいと思う。地に足をつけて、自分に出来ることと、やりたいことを着実にやっていく。

自分自身を幸せにするためには、きっとそれしかないのだと思う。突然幸運が振ってきて幸せになれる夢はもう、見なくなった。

 

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*1:なお、対価を受け取っている労働契約は履行しなければなりませんし、たとえば自分の責任で生んだ子供は育てねばならないとは考えます